私が暮らす町

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私の選挙区は京都市の右京区、西京区、亀岡市、八木町、園部町、日吉町、丹波町、和知町、瑞穂町、京北町、美山町です。今回は私が現在暮らす亀岡市をご紹介します。

亀岡は古くから京の都の奥座敷として、現在では京阪神のベットタウンとして発展するとともに、豊かな自然に囲まれた美しい町です。

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また亀岡には亀山城址や穴太寺など数多くの史跡が残っています。歴史上ゆかりのある人物には、戦国時代に亀山城を築き、現在の亀岡市中心部の基礎となる城下町を整備した明智光秀のほか、江戸初期に心学を起こした石田梅岩、日本画の大家の円山応挙なども亀岡で出生し、その名残が亀岡各地に残っています。

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全国的に有名な観光スポットのひとつに、亀岡と嵐山間に位置する保津峡谷の急流を昔ながらの船で下るという「保津川下り」があります。私のお勧めはまず嵐山から「トロッコ列車」で亀岡に入り、たっぷりと亀岡の史跡や四季折々の自然を満喫した後、お帰りの際に「保津川下り」で急流のスリルと保津峡谷の自然まで楽しむというお得なパターンです。皆様もぜひ一度お試しください。

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田中 源太郎 氏

ところで皆さんは近代、亀岡で生を受けた田中源太郎という人物をご存知でしょうか。京都や地元の亀岡の方も案外ご存知無いかもしれません。彼は陸運会社や商社などの事業を青年期に設立しました。また当時では先進的な株式取引所や銀行、製麻といった数々の実業を手がけました。さらに27歳に京都府議会議員に初当選して以来、衆議院議員および貴族院議員を歴任、国政の場においても数々の要職を就くなど政界においても活躍しています。また晩年には京都電燈株式会社(現在の関西電力などの電力会社の前身)を設立する一方、私学校の設立に尽力するなど、教育分野においても積極的な活動を行いました。このように彼は実業、政治、教育といった様々な分野において、地元及び京都のみならず国家の近代化にも大きな足跡を残しています。

彼の数多くの功績のうちで最も印象深いものに、嵯峨野線(現在のJR山陰線の京都~園部にあたる区間)の建設があります。東京から神戸間で東海道線がすでに全線開通していた当時ですが、亀岡から京都間は馬や駕籠で往来していました。地元からの鉄道敷設の願いを受け、さらに丹波・丹後地域、山陰方面の将来的な経済的発展につながると見込んだ彼は、鉄道敷設を計画、京都鉄道株式会社を設立しました。

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ただ他地域にも鉄道敷設要求が相次いであったことなどから、政府による事業認可を得るのは非常に難航したとされています。さらに工事着手後も保津峡谷の想像を絶する険路や侠客の妨害に加え、日清戦争の影響に見舞われ、完成に至るまでは予想外の資金と時間が必要となりました。

苦難の末の嵯峨野線開通後、亀岡~京都間の往来は1時間半も短縮、これにより京都・大阪などの近隣都市の流通網が形成され、地元農産物の生産性向上や、蚕糸業の進展、マンガンの生産開始など地元経済は飛躍的に発展しました。さらに今日の、丹波・丹後地域、山陰方面の文化・経済的発展ための大動脈となっています。

地元の願いに答える行動力、次世代産業につながる鉄道敷設といった着眼点の鋭さ、さらには啓蒙活動などその幅広い活動には大変、尊敬する点があります。実は田中源太郎翁は私の遠縁にあたります。彼の地方重視、現実主義、教育者としての姿は、私に大きな影響を与え、また私の政治家たる原点のひとつですので、今回、特にご紹介しました。

そんな彼は1922年(大正11年)、何とも運命のいたずらとしか言いようの無い、嵯峨野線保津川鉄橋で起きた鉄道の転覆事故に遭遇、自らが情熱を燃やした鉄道によりその命を絶ってしまいました。

この他、私の選挙区内には様々なエピソードがあります。随時、更新しご紹介したいと思います。

田中 ひでお

田中源太郎略年表

1853年(嘉永6年)丹波亀山藩御用達商人田中蔵一の次男として出生
1866年(慶応2年)丹波亀山藩総礼格(準藩士)として、物産賭就任
1869年(明治2年)亀岡陸運会社設立
馬路村北村龍像に学ぶ
1871年(同 4年)三反物産会社設立
山本覚馬に政経を学ぶ
1874年(同7年)桑田郡追分村戸長就任
1877年(同10年)桑田郡第一区副区兼副取締役就任
1880年(同13年)京都府会議員初当選(衆議院議員当選まで3期)
1884年(同17年)京都株式取引所頭取就任 株式会社亀岡銀行設立
株式会社亀岡銀行設立
1890年(同23年)衆議院議員初当選(同27年まで3期)
1891年(同24年)京都商工銀行頭取就任
1893年(同28年)京都鉄道株式会社設立 取締役就任
1897年(同30年)京姫鉄道株式会社取締役社長就任
貴族院議員勅任(明治30~37年・同44年~大正7年)
1899年(同32年)京都・園部間全線開通
1913年(大正2年)京都電燈株式会社社長就任
1922年(大正11年)亀岡から京都への帰途、保津峡での鉄道事故により逝去